小林のポケモンブログ

主にポケモンの構築記事・考察のブログです。基本的に投稿頻度は少ないです。ソード・シールドでは今のところダブルバトルメインでやっています。

【受験】現代文読解の選択問題、本文を読まなくても解ける説【国語】

はじめに

 はじめまして、またはこんにちは。

 

 ブログタイトルの通り、普段はポケモンの構築記事を書いています。

 

 今回はポケモンと関係なく、ある説を思いついたので、その検証をしてみました。

 

 題して、

 

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https://www.sui-generator.tech/ を使いました

※以下、説の検証っぽく、常体で書きます。 

 

 勉強や学力テスト、入試でおなじみの現代文。

 

 それにおける読解問題は、配点の中で大きな割合を占める。

 

 その読解問題の中でも、選択問題ならば、本文を読まなくても解けるのではないか、と仮説を思いついたので、検証してみることにした。

 

 なお、以下、前提条件設定、検証と各検証のまとめ、全体のまとめ、という順番になっている。前提条件部分はおそらく退屈で、各検証はとても長い。結論だけ見たい方は、目次からまとめに飛ぶと良いだろう。

 

 

 

なぜ本文を読まずに解けると考えたか

 ご存知の通り、現代文における読解問題は、「書かれている本文を正しく読めるか」を問われている。本文を読まずに解くという行為は、当然、本義に反する。

 

 それにそもそも、本文を読んで答える問題なのだから、本文なしで解くなど、不可能と考えるのが自然である。

 

 しかしながら、選択問題に限っては、そうとも言えないのではないか。以下に根拠を示す。

 

①問題文には傍線部という大きなヒントがある。

 

 多くの現代文の読解問題は、各問題ごとに傍線部が割り当てられ、それについて答える問題になっている。

 

 つまり、問題文には、その問題を解くにあたって一番重要となる本文の一部が書いてあるのである。

 

 これは本文全体からすればごく短いが、しかしながら大きなヒントだ。

 

②各問題は、同じ文章についての問題である。

 

 問題単品だと、例えば全体の論旨を問う問題などはまず本文なしで答えられない。

 

 しかしながら、一つの大問に複数小問がある場合、一つの本文に対して複数の問題があるのである。

 

 これらは一つの本文について述べられている以上、それらを関連して考えれば、全体像がある程度浮かび上がってくるのだ。

 

 また、問題になっているということは、そこが本文の要点である可能性は高い。選択肢の中にある正解の文は、本文を正しく簡潔に、言い換え、または要約した文である。これらをつなぎ合わせれば、本文に近い情報が得られるのだ。

 

③正解以外の選択肢は、割と滅茶苦茶なことが書かれる傾向にある。

 

 他の科目と違い、現代文読解における選択問題は、選択肢を作るのが難しい。

 

 選択問題は、学力を測る問題としての役割を果たすには、不正解の選択肢をある程度紛らわしくしなければならない。

 

 これについては、数学なら数字を、理科や社会なら学問的に分かっている事実(または確度の高い説)を、正しいものから少し弄れば良いだけだから比較的簡単だ。

 

 例えば社会ならば、「藤原道長外戚関係で権力基盤を安定させ、関白の地位についた」というように、紛らわしい不正解の選択肢を作るのは容易である。

 

 しかし現代文読解はどうだろうか。

 

 文章を読んだとして、それについて個人がどう読み取るかは、千差万別である。受験問題ともなれば何万人もの受験者がいることもあるのだから、「本文を正しく読んだ正解」は、万人が納得できるものでなければならない

 

 そして、似たことは不正解の選択肢にも言える。

 

 その選択肢が「正しくない」ということもまた、万人に理解できる普遍的なものでなければならないのだ。

 

 つまり、現代文読解の選択問題における間違った選択肢は、絶対的明らかに間違っているものでなければならないため、本文から大きく外れた滅茶苦茶な内容になりがちなのである。

 

 本文を読まずとも、滅茶苦茶なことを言っている選択肢にはどこか違和感が生じるし、正しい選択肢は違和感を覚えにくい。

 

 これをヒントに選択肢を選べば、正解できるのではないだろうか。

 

④子供に解いてもらう問題に、変なことは書けない。

 

 仮に受験問題で、世間一般の道徳・倫理・常識から大きく外れた問題を出したらどうだろうか。大クレームは必至である。

 

 また、問題作成者は教育の道を歩んできた、教育熱心な大人である。

 

 そんな中で果たして、不道徳、非倫理的、非常識な選択肢を正解にするだろうか。

 

 おそらく大体の場合、そうはしない。むしろ、本文も、それを正しく読みとった正解の選択肢も、常識外れではない、さらにいうと道徳的なものを作問者は用意する可能性は高い。

 

 これらを根拠として、本文を読まずに問題が解けるのではないかと考えた。

 

 ③④に至っては、作問者の事情を踏まえた盤外戦術・邪道ではある。しかし、実際に受験テクニックの一つとして使われている。僕のようなアルバイト塾講師(実家暮らしフリーター)がこれらを言い出しても説得力皆無だが、受験界隈で受け継がれてきたのだから、説得力もあろう。

 

 

ルールや検証方法

①どこを読んでよいか

 現代文読解の問題には、以下のことが書かれていることが多い。

 

A・大問→例・以下の(○○について述べた)文章をよく読み、次の問題に答えよ。

B・本文

C・作者名・タイトル→大問に書かれているか、本文末尾に書いてある場合が多い。

D・脚注

E・小問→例・問1 傍線部(ア)について述べたものとして、次の選択肢から最も正しいものを選べ。

F・選択肢

 

 説にそぐわすためには、E・Fは必須で、逆にBは絶対に読んではいけない。

 

 また、個人的に、タイトルは本文の一部だと考えているので、そこを読むのも今回はできるだけ避けたい。しかし末尾に書いてあるパターンだと、小問が書いてあるページに書かれている場合もあるので、やむを得ず見てしまうこともある。今回は検証の再現性を上げるため、仕方なく可能とする。

 

 また、Aはあまり影響がないから、DはCと同じ理由で、読んでよいものとさせてほしい。

 

 よって、ACDEFを読んで良くて、Bのみ読んではいけないものとする。

 

②どんな小問を解くか

 

 さすがに記述問題は、本文を読まないとほぼ絶対に無理だ。選択問題に近しい本文書き抜き問題も、近い言葉は書けるだろうが、本文と全く同じ言葉は流石に無理なので、解く対象としない。

 

 また同じ選択問題でも、センター試験大問1の漢字や、大問2の語彙問題、といった類は、本文はあまり関係ないので除外する。

 

 さらに、穴埋め問題(接続詞を埋める問題など)も、さすがに小問と選択肢だけでは解答の根拠が少なすぎるので除外する。

 

 逆に、これら以外の、いわば一般的ともいえる読解選択問題は、解く対象とするべきであろう。

 

③どんな大問を解くか

 

 現代文読解の本文には、大きく分けて3種類ある。

 

 説明的文章、文学的文章、随想文だ。

 

 随想文は、説明的文章と文学的文章の間的な位置づけをよくなされる。

 

 本文を読まないで解くとしたら、先述の通り、選択肢同士の論理のつながりが重要であるため、文学的文章と随想文は不可能に近い。もしかしたら可能かもしれないが、僕はそこまでハイスペックな人間ではない(Fラン私大卒実家暮らしフリーター)。今回の縛りで一番簡単な説明的文章に限定させていただきたい。

 

 もしかしたら後日文学的文章編を上げるかもしれないが、結果は言わずと知れているだろう。

 

④どの問題を解くか

 

 現代文という括りで言えば、まず思い浮かぶのはセンター試験だろう。または話題の大学入試共通テストだ。

 

 しかしながら、センター試験は、傍線部が短い傾向があり、解答のヒントが少なすぎる。大学入試共通テストは、この記事を書き始めた時にはまだギリギリ始まっていない。

 

 他の大学入試(各大学の問題)ならどうかと考えたが、一番メジャーな国公立は記述式が多く、私大のものはネットから無料で探しにくい。あとそもそも、僕はFラン私大出身なのだから、本文を読んですら悲惨な成績になるので、検証にならない。

 

 そこで今回は、比較的手に入りやすく、問題も平易で意地悪な選択肢が少ない(つまり判断がしやすい)であろう、各県で実施されている公立高校入試を対象とする。

 

 その中でも今回は、僕が働いている塾がある、神奈川県のものを、慣れているということで選ばせていただきたい。

 

 そういうわけで、今回対象とするのは、神奈川県公立高校入試問題の、平成31年度・令和2年度の追検査問題とする。なお本試験問題にしない理由は、仕事のためにすでに解いてしまっているからである。

 

 それでは、検証を開始する。

 

検証① 平成31年度問題

平成31年度 共通選抜 学力検査問題 - 神奈川県ホームページ

 まずはこちらの追検査に挑んでみるものとする。

 

 先述の部分で読んでよい部分と読んではいけない部分を長々書いたが、そもそも著作権の都合でネットに上げる問題に関しては本文が隠されている。説の検証がしやすいのでありがたい。

 

 説明的文章は、大問4だ。解いていこう。

 

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 早速、小問(ア)では穴埋め問題が出てきた。今回は飛ばそう。

 

小問(イ)

「岩壁という困難に対して肉体一つで向かいあったとき、その人は自由になれるのである。」 とあるが、それを説明したものとして最も適するものを次の中から一つ選び、その番号を答えなさい。

 

1 フリークライマーは人工登攀に対する反発の気持ちを表現するため、世界中のどんな場所であっても登攀しているという意味で自由だということ。

 

2 フリークライマーは道具を使わずに己の肉体のみで岩壁を登るため、自分の能力以外の何にも制約されずに登攀しているという意味で自由だということ。

 

3 フリークライマーは登攀できないような岩壁はそもそも対象としていないので、失敗を恐れずにの びのびと登攀しているという意味で自由だということ。

 

4 フリークライマーは自分の肉体と精神を極限にまで高めているので、道具以外の手助けを受けることなく登攀しているという意味で自由だということ。

 

 選択肢を見るに、「フリークライマーが自由である」と述べているらしい。問題文の「岩壁という困難に対して肉体一つで向かいあったとき、その人」とはフリークライマーの事であろう。

 

「肉体一つ」という表現から、道具を使うことは考えにくい。よって選択肢4は「道具以外の手助けを受けることなく登攀している」の部分が間違いである。ちなみに、こうした選択問題で、部分部分(句読点ごとが主流)で分けて分割箇所ごとに検討する消去法は、実際の試験でも非常に有効なので、試してみてほしい。

 

 選択肢3「フリークライマーは登攀できないような岩壁はそもそも対象としていないので」の部分は、実際どうであるかはわからないものの、フリークライマーを露骨に「妥協した存在」として書いているので、非倫理的ではある。正解の可能性は低い。

 

 選択肢1「世界中のどんな場所であっても登攀している」の「どんな」は、典型的な「かなり強い表現」である。「必ず」「絶対」などはそうそう論理的に断言して言えるものではない。そのため、不正解の選択肢に入れる言葉として使われがちである。正解の可能性はやはり低い。

 

 選択肢2は、これといって違和感やあからさまな間違いは感じない。「道具を使わずに己の肉体のみで岩壁を登る」という表現も、「肉体一つ」という傍線部の表現に合致している。

 

 この問題は、2が正解と判断した。

 

 

小問(ウ)

「圧倒的な生の手応え」とあるが、それを説明したものとして最も適するものを次の中から 一つ選び、その番号を答えなさい。

 

1 誰からも干渉や指示などされないで、自分の思うまま勝手に生きることができるということ。

 

2 参照すべき前例や方法論がないので、都合よく自分の人生を決めることができるということ。

 

3 管理された秩序に守られることで、安定した自分なりの生活を築くことができるということ。

 

4 すべて自分で判断することで、自分だけの充実した生を実感することができるということ。

 

 問題同士で関連しあっている、と先述したが、実はすべてが同じ論理で貫かれていると考えるのは危険である。

 

 世に出ている説明的文章のほとんどは、話を分かりやすくするため、「伝えたいことの反対に位置する比較対象」を用意していることが多い。典型で言うと、西洋と東洋(日本)、昔と今、都市と農村、などだ。

 

 例えば、「1問目で問われているのが本文における都市について、2問目で問われているのが本文における農村について」というパターンなら、一貫した論理ではなく、逆の方向性が正解になる可能性が高い。これを利用して、どちらについて述べられているかを判断し、本文に直線と波線を書き込んで分ける、という受験テクニックもある。

 

 しかし、今回の縛りでは、作者の読みやすくしようという工夫も、この受験テクニックも、あまり意味がない。同じ話をしているか判断するには傍線部が重要だが、今回は短いため判断しにくい。

 

 仕方がないので、少ないヒントから判断していこう。

 

 小問(イ)で、「フリークライマーは道具を使わず肉体一つで岩壁に挑むから自由」のようなことが書かれていた。これの比較対象を上げるとすれば、「道具を使う登山」「便利なものに囲まれた安心生活」「何かしらの不自由」あたりが考えられる。これらは、他思いつくものも含め、どうにも、「圧倒的な生の手応え」と強い表現に適うものはない。

 

 むしろ、フリークライマーのような危険なものだからこそ、「圧倒的な生の手応え」を感じるという、いかにもありがちな論理の可能性が高い。

 

 そうなると、選択肢3は除外できる。選択肢1と2はそれぞれ「自分の思うまま勝手に生きることができる」「都合よく自分の人生を決めることができる」が、イヤミな表現に見えて、フリークライマーから繋がる「圧倒的な生の手応え」には噛み合わないように思える。これが世捨て人や隠居老人だったらあり得るだろうが、今回は違う。

 

 一方、選択肢4は、これといってマイナス点はない。消去法で、4を正解としよう。

 

 次の小問(エ)は記述なので飛ばそう。

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小問(オ)

線4「システムの管理下におかれたほうが心は落ち着くだろう。」とあるが、その理由として最も適するものを次の中から一つ選び、その番号を答えなさい。

 

1 システムとは、苦しくてわずらわしいことを人に強制はするが、同時にそれらの経験を通して未知と混沌の世界を生き抜く力を与えてくれるものでもあるから。

 

2 システムとは、人の行動や思考に干渉はするが、不安定な自由状態の中で自分が下した決断に対して責任がはねかえってくることを防いでくれるものでもあるから。

 

3 システムとは、人の自由な生き方を制限はするが、同時に一瞬の判断や動作をいちいち考える必要がなくなり新たな自由の可能性を開いてくれるものでもあるから。

 

4 システムとは、何事かを判断する際に人を束縛はするが、同時に予測不能な事態に自分一人の力で立ち向かうという極度の緊張を軽減してくれるものでもあるから。

 

「システムの管理下」という表現が、これまでの部分とはかなり雰囲気が違ってくる。これは先述の「比較対象」のパターンと判断できよう。

 

 そうなると、これまでの反対として思い浮かぶのは「安心」「生の実感が薄い」「不自由」「道具登山」あたりだろうか。こうした場合、「安心」のようなものは、一般的にはプラスでも、どこか批判的なニュアンスを含む場合が多い。

 

 しかしこの選択肢は、結論部分のどれもがかなり肯定的である。それでいて、前半部分では、全ての選択肢で「不自由」に合致する表現がある。これはこの縛りでは難問だ。ここまで肯定的表現が並ぶと、今までの予想に反して、「システムが作者の述べたいこと、フリークライマー的な何かが比較対象」とすら思えてきた。

 

 とはいえ、ここはこれまでの姿勢を貫き、冷静に判断したい。

 

 ここで注目するのが、小問(イ)で述べられたフリークライマーの「肉体一つ」「道具を使わずに己の肉体のみ」という表現である。これの反対の意味を唯一もつのが、選択肢4「予測不能な事態に自分一人の力で立ち向かうという極度の緊張を軽減してくれる」という表現だ。対比としてこれが一番近いと言える。

 

 よって、ここでは、やや根拠が薄いが、4を正解としておこう。

 

 ちなみに今回のように、正解を直接選んで他の選択肢の否定材料を探さないのは、本来のテストにおいては正道かつ時間がかからない方法ではある。しかし、後まで不安が付きまとうし、見直しで自分の考えた正解の根拠を追いにくいので、余裕があれば、他選択肢を可能な限り潰しておくのが良い。

 

小問(カ)

線5「現実には自力や自由には制約がある。」とあるが、それを説明したものとして最も適する ものを次の中から一つ選び、その番号を答えなさい。

 

1 モノや過剰なやり方を用いず、すべてを自力でおこなうことで完璧な自由を享受しようとしても、現実の場面においては、自覚のないままそれらを採用してしまっているということ。

 

2 すべてを自力でおこなうことで、究極の自由を実現しようとしても、人間の開発したさまざまなモノややり方を排除することには限界があり、それらに頼らざるを得ないということ。

 

3 システムの管理が届かない領域に逃れ、自力で命を統御することで完璧な自由を達成しようとしても、実際は前例やマニュアルが存在し、それらを参照することになるということ。

 

4 システムの内側にとどまったまま、自力で命を統御することで究極の自由を獲得しようとしても、現実の場面においては、それらを両立させていくことは不可能であるということ。

 

 これも今回の縛りでは難問だ。恐らくこの後に例え話を入れたうえで改めて言い換えた形で同じことを述べ、そこが正解の根拠になるのだろうが、今回はそれが読めない。本文を、活字を、読めるというのは、幸せなことなのである

 

 とはいえ、哲学的な話は、問題には関係ない。本文を読まないという最低の愚行をしていてこういうのもなんだが、読解問題において個人の情緒や考えはノイズでしかないのである。

 

 選択肢3の「前例やマニュアル」というのは、これまで見ない表現だ。特に「マニュアル」はこれまでに比べ具体的な言葉である。疑問符をつけたい。

 

 選択肢4システムの内側にとどまったまま」が疑問である。「自力や自由に制約がある」の「自力や自由」は、これまでの「フリークライマー的な何か」について述べていると考えるのが手持ちの情報では自然だ。「フリークライマー的な何か」は、前提部分に出すほど「システムの内側にとどまったまま」とは言えない。選択肢1や2のように、『実際は「システムの内側にとどまったまま」だ』と言われるのならまだわかるが、この選択肢は不自然だ。

 

 選択肢1・2は、判断がつかない。「自由」を目指しても、「システム的なもの」について、「自覚のないまま採用してしまう」か「それらに頼らざるを得ない」、という点で大きく違うため本文を読めば一目瞭然なのだろうが、今回は読んではいけないのである。

 

 もしかしたら後の問題でヒントがあるかもしれない。保留しておこう。

 

小問(キ)

線6「冒険の世界で自力という観念が尊ばれる」とあるが、その理由として最も適するものを次の中から一つ選び、その番号を答えなさい。

 

1予見できない危険に満ちた自然に自分の判断や身体行為だけで臨むことは、危険度が増して目的の達成は難しくなるが、そのぶん得られる自由は大きくなるから。

 

2 道具を用いずに自分の肉体のみで人智のおよばない自然に向かっていくことは、それだけ困難な行為ではあるが、無垢で手つかずの自然に触れることができるから。

 

3 道具を用いずに自分の肉体のみでシステムの外側にある自然に飛び出すことは、安全な日常の生活を捨てることにはなるが、気ままに生きることが許されるから。

 

4 自分の判断や身体行為だけで不安定な自然に対峙することは、命を統御する過程への関わりは減るが、それと引き換えにより大きな自由を得ることができるから。

 

 結局のところ、この本文では、言ってしまえば「フリークライマー的なもの」には「不自由(不便、危険、システム外の自然的制約)があるからこその自由がある」ということを述べているのだ。問題の位置的にも終盤の本文結論に近い部分に傍線部があることが予測されるため、これまでの問題のまとめと見て良いだろう。

 

 まず結論部分に自由要素が薄い選択肢2は除外。選択肢3「気ままに生きることが許される」は否定的ニュアンスがあるので除外。

 

 選択肢1・4は迷いどころだ。それぞれ「目的の達成」「命を統御する過程への関わりは減る」が意味が分からない。

 

 そこで思い出すのが、これまでの問題との関わりだ。

 

 小問(カ)で真っ先に切った不正解と思われる以下の二つを見てみよう。

 

システムの管理が届かない領域に逃れ、自力で命を統御することで完璧な自由を達成しようとしても、実際は前例やマニュアルが存在し、それらを参照することになるということ。

4 システムの内側にとどまったまま、自力で命を統御することで究極の自由を獲得しようとしても、現実の場面においては、それらを両立させていくことは不可能であるということ。

 

 真っ先に切ったものの、不正解とした根拠はそれぞれ「前例やマニュアル」「システムの内側にとどまったまま」である。「自力で命を統御することで究極の・完璧な自由」は否定していない。この部分は「フリークライマー的な何か」について述べているものであるため、今回の小問(キ)が述べてる対象と同じである。

 

 そうなると、選択肢4の「命を統御する過程への関わりは減る」は真逆の事である。

 

 よって、正解は1であろう。

 

小問(ク)

本文について説明したものとして最も適するものを次の中から一つ選び、その番号を答えなさい。

 

1 何も参照物のない「システム」の中で、すべてを自分で引き受けなければならない自由の厳しさについて、自由という言葉から想起される一般的なイメージにも触れながら論じている。

 

2 無意識に人間の行動や思考を方向づけている「システム」について、すべてを自分で判断しなけれ ばならない冒険における自由についての考察を通して、その意義を再評価して論じている。

 

3 冒険における自由とはすべてを自分で判断することによって得られるものだと説明した上で、行為の困難さと内容の充実度との関係を、「脱システム」という概念を用いて論じている。

 

4 理想的な冒険のあり方とは「脱システム」してすべてを自力で判断することだと述べた上で、モノ や過剰なやり方に頼らざるを得ない現状を、自分の体験を交えて肯定的に論じている。

 

 説明的文章の最後は、「本文について説明したものを選べ」という、全体的な内容についての問題が出されがちである。「問題を先に読んで必要な部分だけ本文摘まみ読み」というテクニックへのアンチテーゼともいえるが、ぶっちゃけ、これも各選択肢に応じた部分だけ読めば短い時間で正解できてしまう。

 

 とはいえ、今回は本文が読めない。これまでの問題を通して全体の論理を読み取っていこう。

 

 さて、これは神奈川県の中学生が解く、比較的平易に作られた問題である、という前提がある。そうなると、全体に根差していないが本文の細かい一部分について述べていてしかも正しい選択肢である、という意地悪はないと見てよい。

 

 よって、これは本文の特徴を答えるのみならず、全体の論旨を問う問題でもある。

 

 一瞬自信をなくしていたが、やはりこの本文は、「フリークライマー的なもの」には「不自由(不便、危険、システム外の自然的制約)があるからこその自由がある」というありがちなことを述べている、というのが本文以外から推察できる。本文を読まずにこんなことを言うのは作者への冒涜甚だしいが、許していただきたい。

 

 となると、そちら系統の自由を肯定し、反対方向「システム的な何か」を否定していると考えるべきである。

 

 よって、選択肢2・4はそれぞれ「無意識に人間の行動や思考を方向づけている「システム」について、~その意義を再評価」「モノ や過剰なやり方に頼らざるを得ない現状を、自分の体験を交えて肯定的」が間違いであろう。

 

 選択肢1は「何も参照物のない「システム」の中で」が間違いだと思われる。「システム」はこれまでの問題では参照物的なものとして捉えていたからだ。しかし「システム」と鍵括弧で括られているのは気になる点である。もしかしたら、機械的・文明人間的なニュアンスを感じる一般的な「システム」と対極の、自然的・野性的な「システム」について述べていたことも考えられる。

 

 ただそうなると「脱システム」が、両方から離れることになり、何について述べているのかもはや本文なしでは収拾がつかない。ここは深く考えずこれを間違いとして、これといってケチをつけられない選択肢3を正解としよう。

 

 さて、宙ぶらりんなのは小問(カ)だけだ。もう一度問題と候補選択肢を振り返ろう。

 

線5「現実には自力や自由には制約がある。」とあるが、それを説明したものとして最も適する ものを次の中から一つ選び、その番号を答えなさい。

 

1 モノや過剰なやり方を用いず、すべてを自力でおこなうことで完璧な自由を享受しようとしても、現実の場面においては、自覚のないままそれらを採用してしまっているということ。

 

2 すべてを自力でおこなうことで、究極の自由を実現しようとしても、人間の開発したさまざまなモノややり方を排除することには限界があり、それらに頼らざるを得ないということ。

 

 困ったことに後の問題にも明確なヒントは見つからなかった。仕方がないので、なんとか理由をつけることにする。

 

 選択肢1に比べ2には「限界があり」「頼らざるを得ない」など、明確な「制約」と近似した表現がある。

 

 また、小問(キ)線6「冒険の世界で自力という観念が尊ばれる」より、この本文のまとめ的な一文に「自力」があるのも注目したい。

 

 よってやや苦しいが、小問(カ)は、2を正解とする。

 

解答のまとめ

(イ)2(ウ)4(オ)4(カ)2(キ)1(ク)3

 

模範解答

(イ)2(ウ)4(オ)4(カ)2(キ)1(ク)3

 

平成31年度問題・まとめ

 

 

全問正解するんかい!!!!!!!!

 

 

 

 一部受験テクニックとしてとてもためになる方法論もあったが、とはいえ、本文を読まないで全問正解できてしまうのは、いくらなんでも冒涜的である。

 

 活字離れや長文読解力低下が著しいと、事実はどうあれ言われている昨今。インターネットでは、「ニュースはタイトルだけでなく本文をよく読もう」が教訓になり、相手の言うことをまともに読まない匿名やましてやなぜか政治家や芸能人がレスバを繰り広げる地獄絵図。

 

 そんな中で説明的文章の読解問題は、重要視されてしかるべきだ。

 

 しかし残念なことに、本文を一切読まず、断片的な情報(傍線部)、外付けの情報(選択肢)、ある種の外道(受験テクニック、メタ読み)で、全問正解できてしまった。

 

 これでは現代文読解の本義に示しがつかない。ここは次に解く、令和2年度追検査問題に頑張ってもらおう。全部の問題を分析している真面目な同僚が、この年の追検査は全体的に難しかったと言っていたので、期待は十分だ。

 

検証② 令和2年度問題

令和2年度 共通選抜 学力検査問題 - 神奈川県ホームページ

 

 全体をざっと見まわしてみると、なんと平成31年度問題と、全く同じ構成だ。小問が始まるページと終わるページが一致し、しかも問題数や問題の配置まで同じときている。これを実現するには、問題の長さが露骨に違うと不公平なので本文の長さを同じにするようにも気を配らなければならない。並々ならぬ努力である。

 

 しかしながらこの検証は本文を読まず、そうした努力を無に帰してしまうものだ。なんとも罪深いものである。

 

 では、解いていこう。

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 まず目につくのは、注にある、哲学や学術用語っぽい横文字の数々だ。これを見るだけで「うげえ」となる子供も多いが、注がわかりやすくついているのだから、むしろ喜んで然るべきである。

 

 小問(ア)は穴埋めなので飛ばそう。

 

小問(イ)

線1「近代より前とそれ以降では美的経験の質が大きく変化している。」とあるが、それを説明したものとして最も適するものを次の中から一つ選び、その番号を答えなさい。

 

1 近代より前の時代には、美は普遍的なものであると認識されていたが、近代以降は個人の経験や感じ方によるものと考えられるようになったということ。

 

2 近代より前の時代には、神により絶対的な美というものが作り出されていたが、近代以降は人間も美を作り出そうと挑戦するようになったということ。

 

3 近代より前の時代には、人びとの総意をもとに美は決定されていたが、近代以降は権威のある人によって一方的に決められるものになったということ。

 

4 近代より前の時代には、美というものを個人が自由に判断することができていたが、近代以降は客観的な事実をもとに判断するものになったということ。

 

 いきなり難しい。恐らく「美」をテーマにして、近代以降と近代以前の違いについて述べている文章があるのだろう。

 

 本文があれば簡単なのだが、ここは本文が無いため、ある程度歴史的な知識・事実を持ち込まなければならない。

 

 ちなみに、現代文にしろ英語長文にしろ、読解問題は、ある程度その本文のテーマについて前提知識があれば、ぐっと解くのも読むのも楽になる。ただし、あくまでも本文に即した解答が重要であり、持ち込んだ知識が仇になりかねないことには注意が必要だ。

 

 それはさておき、本文が無いので、知識を使うほかないだろう。

 

 しかしながら、当然、美学の世界を僕は知らない。というわけで、近代以前・以降のなんとなくのイメージから進めていこう。

 

 近代以降・以前のイメージ的な違いとして、近代以降は、個人主義、客観的、論理的、科学的、人権、法の支配、が主流のように思える。そして、イギリスの革命のように、絶対的な集中権力(王・神的なもの)が否定される時代でもある。実際各国で事情は異なるが、大体こんな理解で良いだろう。

 

 そうなると、選択肢3「近代以降は権威のある人によって一方的に決められるものになった」はまずありえない。

 

 また、選択肢3「近代より前の時代には、神により絶対的な美というものが作り出されていたが、近代以降は人間も美を作り出そうと挑戦するようになった」も、近代云々関係なく間違いだ。近代以前も美術品は多く存在している。

 

 選択肢1・4は迷いどころだ。「近代以前・以降」で、それぞれ「支配的な考え方・個人主義」「主観的・客観的」と綺麗な対比が出来ている。これはこの段階では判断しにくいので、後の問題をヒントとしたい。保留しておこう。

 

 いきなり保留問題が出てしまった。先行きが不安である。

 

小問(ウ)

線2「この作品は美しい、素晴らしいという美に関する判断は、個別的・主観的な感情の発露だけに還元することはできない」とあるが、その理由として最も適するものを次の中から一つ選び、その番号を答えなさい。

 

1 美的判断には、個人の感じ方だけではなく、神の知性の影響を受けることも想定されているから。

 

2 美的判断は、個々の好みだけによるものではなく、客観的であることも重視されているから。

 

3 美的判断には、個人の感性だけによるものではなく、無意識に他者の共感も想定されているから。

 

4 美的判断は、個々の主体的な経験だけではなく、普遍的な根拠や法則も重視されているから。

 

 ここは先ほどと違い、傍線部も選択肢も全てが、「美」について、「個人的主観的・客観的普遍的」の対比構造を作っている。

 

 まず、選択肢1「神の知性」が意味不明だ。小問(イ)にもいたが、「神」、お前は何者なんだ。これは除外しよう。

 

 それと選択肢4は一見正しく見えるが、「個別的・主観的」を勝手に「主体的」に言い換えている。類義とは言えないので、これも除外できる。

 

 選択肢2・3は迷いどころだ。これといってケチはつけられない。もし2が正解だったら、宙ぶらりんな小問(イ)の答えが、同じ論理である4が正解になる、と自動的に決まるので楽なのだが、いくらなんでも希望的観測すぎる。

 

 ここもいったん保留したい。

 

小問(エ)

 記述なので飛ばしたいが、保留が2個出ている以上、ヒントになりそうなので目を通しておこう。

 

 カントは聞いたことがある。多分近代または近代に近い時代の哲学者だろう。『いちばんやさしい哲学の本』を読んだ記憶がそう言っている。なお数か月前に流し読みした記憶なので多分滅茶苦茶だ。文学部出身なのに哲学はてんで勉強しないカス大学生だったツケがこんなところでやってくるとは思わなかった。

 

 アーレントについては聞いたことが無い。FFの主人公みたいな名前だが、多分哲学者だ。説明的文章に出てくる横文字人名は大抵哲学者なのである。多分。

 

 とりあえず、穴埋め対象となる文章を見ていこう。

 

アーレントは、カントによる美的判断論の根底にある、他者の立場から自身の判断を反省するという「空欄1」 を行う能力を呼び起こし「空欄2」することが、政治哲学にもつながっていると捉えている ということ。

 

 穴埋めは無理だが、大きなヒントが書かれている。

 

「美的判断論の根底にある、他者の立場から自信の判断を反省する」という部分だ。やはり、作者は、「美」に関して、個人の感性によるという世間の風潮に対し、「現状は意外と客観性が求められている」的なことを言いたいのだろう。

 

 そうなると、保留したうちの小問(イ)は、選択肢4が正解だ。また小問(ウ)は2が正解である。

 

 平成31年度問題では無視した記述問題も、場合によっては大きなヒントになり得るようだ。これは大きな収穫である。

 

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小問(オ)

線4「昨今の芸術祭流行りもこの流れに棹差している」とあるが、それを説明したものとして最も適するものを次の中から一つ選び、その番号を答えなさい。

 

1 現代は共通の認識を持てず先を見通しにくい時代であるので、美を味わうことを通して人びとが感覚を共有する場となることが、芸術祭に対して期待されているということ。

 

2 現代は共同体のなかで個性を出すことが難しい時代であるので、美に触れることで個別的な感性を豊かにする場となることが、芸術祭に対して求められているということ。

 

3 現代は容易に他者とつながり合える時代だからこそ、美に触れることを通して他者と共鳴する喜びを感じさせる場となることが、芸術祭に対して期待されているということ。

 

4 現代は普遍的な視点が必要となる時代だからこそ、美を味わうことで人びとのなかに画一的な基準を作り出す場となることが、芸術祭に対して求められているということ。

 

 現代文読解は、「この」のような指示語(こそあど言葉)を利用するというのが基本テクニックである。傍線部、または傍線部を含む一文に指示語があったら、問題に関係ある可能性が大きいので、その指示語が指す部分を探すのが正解への近道と言える。

 

 とはいえ今回は本文が読めない。「この流れ」ってなんやねん、という状態で選択肢を選ばなければならない。

 

 まず絶対に選んではいけないのが選択肢3だ。「容易に他者とつながり合える時代だからこそ、美に触れることを通して他者と共鳴する喜びを感じさせる場」が求められてるなど、意味不明すぎる。

 

 また選択肢2「現代は共同体のなかで個性を出すことが難しい時代である」の部分もおかしい。近代以降、現代は個人主義の時代であるというのは先述の通りである。「日本は出る杭がうたれる社会だ!!!」などと分かったような分からないようなことが叫ばれる昨今ではあるが、その根底にあるのは「前時代的」という批判であり、このことに関して「現代は」と名指しで現代が批判されてしまうのは冤罪である。

 

 選択肢1・4はどちらとも判断がつかない。これといってケチはつけられないから困ったものである。強いていうなれば、選択肢4「画一的な基準」という言葉が、かなり刺々しくて、これまでの正解の選択肢から浮いているように感じる。

 

 根拠が薄いが、1が正解としておこう。

 

小問(カ)

線5「そうしたテーマを掲げる芸術祭やアート・プロジェクトが今日の日本では増殖している」 とあるが、そのことについて筆者はどのように述べているか。それを説明したものとして最も適するものを次の中から一つ選び、その番号を答えなさい。

 

1 芸術に社会が抱える課題を解決する効果があるのは明白だが、「神頼み」や「アーティスト詣で」の本質から離れないためには鑑賞以外の目的を持たせるべきではない。

 

2 社会が抱える課題は本来芸術とは全く関係のないものであり、「神頼み」や「アーティスト詣で」がさまざまな問題の解決のきっかけになると期待しても意味がない。

 

3 社会が抱える課題は芸術と密接に関係しているため、形だけの「神頼み」や「アーティスト詣で」 であると批判されたとしても解決に向けて努力し続けるべきである。

 

4 芸術には社会が抱える課題を解決する効能があると期待されているが、単なる「神頼み」や「アーティスト詣で」になっていないかについて十分な検討が必要である。

 

 これも傍線部に指示語がある。解き方が明確な優しい問題だ。本文が読めれば楽勝なのだろうと思うと、「なんでこんなことをしているんだろう」という気持ちがよぎる。

 

 それはさておき。

 

 説明的文章の作者は、現状を憂いているからこそ、わざわざ長々と文章を書く、というのが通例だ。この検証記事も、ただの悪ふざけだが、それですら「本文を読まなくても解けるのでは」という世間の常識に反する問いが生まれたから検証しているのである。

 

 そうなると、「今日の日本では増加している」と作者が考えているものを、肯定的に書くかは微妙である。

 

 よって、選択肢3は肯定的にとらえているので、不正解だろう。

 

 他3つの選択肢を比べると、選択肢1・3が芸術と社会が抱える課題の関係の存在を肯定していて、2はすっぱり切り捨てている。「美」に関して説明的文章を書き、公立高校入試に採用されるほどの人が、果たして芸術と社会課題の関係を切り捨てるかと言うと、いまいち頷けない。個人の感性による判断だが、ここは選択肢2を不正解と判断したい。

 

 また選択肢1も意味不明である。「「神頼み」や「アーティスト詣で」の本質から離れないためには鑑賞以外の目的を持たせるべきではない」、というのは奇妙なことだ。「神頼み」「アーティスト詣で」は芸術を純粋に楽しむという行為からは離れているものであり、「そこから離れないために鑑賞以外の目的を持たせるべきではない」というのは矛盾しているだろう。

 

 一方選択肢4はツッコミどころもなく、結論も穏当な軟着陸をしており、いかにも公立高校入試で採用されそうな優等生的内容だ。

 

 これの正解は4以外あり得ない。

 

小問(キ)

線6「カントからアーレントへの流れに即して芸術を捉えることは一面的な見方に留まるおそれがある」とあるが、その理由として最も適するものを次の中から一つ選び、その番号を答えなさい。

 

1 カントやアーレントの考えに基づいた美的判断は、人びとに対して主観的な考え方をするように意識させるあまり、共同体が持っている役割を見失わせてしまうこともあるから。

 

2 カントやアーレントの考えに基づいた美的判断は、人びとに対して美的経験が持つ効果を注目させるあまり、破壊的な性質が内在していることに気づかせないこともあるから。

 

3 カントやアーレントの考えに基づいた美的判断は、人びとに対して他者と共有することを意識させるあまり、芸術が本来目指すべき方向性を見誤らせてしまうこともあるから。

 

4 カントやアーレントの考えに基づいた美的判断は、人びとに対して作品の美の側面を注目させるあまり、他者も美を感じるものだという前提を忘れさせてしまうこともあるから。

 

 カントやアーレントは、小問(エ)で出てきた名前で、「その流れ」(=思考の流れ)が問題になっている。小問(イ)(ウ)で連続保留を出したせいで苦し紛れに触った小問(エ)が役に立ちそうだ。穴埋め分をもう一度見返そう。

 

アーレントは、カントによる美的判断論の根底にある、他者の立場から自身の判断を反省するという「空欄1」 を行う能力を呼び起こし「空欄2」することが、政治哲学にもつながっていると捉えている ということ。

 

 繰り返しになるが、この論旨は「『美』には客観的側面があり、他者の立場から自分の判断を反省することにもつながり、それが政治哲学にもつながる」というものだ。

 

 よって選択肢4の「他者も美を感じるものだという前提を忘れさせてしまうこともある」は真逆のことを言っているので除外できる。

 

 また選択肢1の「カントやアーレントの考えに基づいた美的判断は、人びとに対して主観的な考え方をするように意識させる」も逆方向だ。不正解である。

 

 選択肢2の「破壊的な性質を内在」というのはこれまでから全く読み取れない謎の言葉だ。「芸術は爆発だ」という有名な言葉があるが、それに関係するものだろうか。何はともあれ、否定材料はないが、積極的に正解と肯定できるものでもない

 

 一方選択肢3は、「人びとに対して他者と共有することを意識させる(客観的な「美」と他者の立場から見た自己反省)あまり、芸術が本来目指すべき方向性を見誤らせてしまうこともある」が、論旨に適している。

 

 こうなってくると、小問(イ)を見た時の解像度が上がってくる。

 

「美」には客観的側面があり、哲学者もそう言っていて、近代以降その面が肥大し、芸術祭には感覚享有の場となることが期待され、それを見た作者は「単なる神頼み・アーティスト詣でになっている」「芸術が目指すべき方向性を見誤らせてしまう危険性がある」と批判している。

 

 こうした流れを見ると、小問(イ)の正解であろう選択肢4「近代より前の時代には、美というものを個人が自由に判断することができていたが、近代以降は客観的な事実をもとに判断するものになったということ。」というのは、「作者が近代以前・以後を対比して、近代以前に良さを見出している」という、典型的な近代以前・以後の対比構造になっていることがわかる

 

 終盤になって序盤の意味が分かってくるというのは、文学作品なら絶頂物の快感だ。本文作者と作問者は、オタクのツボがよくわかっている人なのかもしれない。

 

 話がそれたが、小問(キ)の正解は3である。

 

小問(ク)

本文について説明したものとして最も適するものを次の中から一つ選び、その番号を答えなさい。

 

1 美的判断が持つ汎用性について、各地で開催されている芸術祭の問題点も挙げながら説明した上で、個人の経験に基づいて美を判断するべきであると論じている。

 

2 美的判断が持つ性質について、哲学者の考え方の違いにも触れながら説明した上で、他者と分かり合うためには普遍的な美を見出すことが望まれると論じている。

 

3 美的判断が持つ危険性について、現代社会で求められる美の味わい方も挙げながら説明した上で、 客観的な視点を通して作品と向き合うべきであると論じている。

 

4 美的判断が持つ特性について、美的経験の捉え方の変容にも触れながら説明した上で、現代社会が抱える課題の解決につながることが期待されると論じている。

 

 これ単品だと、本文を読まずに解くとなれば中々の難問である。しかしながら、全体の論旨を、小問(キ)の鮮やかな伏線回収(?)を通して、掴んできた。これなら解けるであろう。

 

 注目するべきは、選択肢2・4の細かな表現だ。「望まれる」「期待される」という言い方をする場合、多くの場合は、「作者がそう考えている」という意味であろう。世間一般がそう考えている、という纏め方なら、「望まれている」「期待されている」という距離を置いた言い方をする。

 

 つまり、それぞれ「他者と分かり合うためには普遍的な美を見出すことが望まれる」「現代社会が抱える課題の解決につながることが期待される」は、論旨に反している。作者はそれをむしろ否定する位置にいると推測されるからだ。

 

 選択肢3の「客観的な視点を通して作品と向き合うべきである」も予測される論旨に反する。

 

 一方選択肢1は、芸術祭の問題点に触れているという小問(オ)(カ)要素にも触れたうえで、結論部分も、尖った表現なので少し躊躇いはあるが、正解と判断できる。

 

 よって、これは1が正解だ。

 

解答のまとめ

(イ)4(ウ)2(オ)1(カ)4(キ)3(ク)1

模範解答

(イ)1(ウ)3(オ)1(カ)4(キ)2(ク)4

 

令和2年度問題・まとめ

6問中2問正解

 び、びみょ~……。「選択肢が4つあるのだから、ランダムに答えたら正解率は4分の1に収束するし、その中で3分の1だしたのだから……」と考えられる方もいるだろうが、「正解を目指して選んだ」のだから、正解側に偏りが生じるのは当然だ。むしろ、正解率2分の1に満たないというのは、大失敗も良いところである。

 

 振り返って見ると、飛ばすはずだった小問(エ)が不正解問題の起点だった。(イ)(ウ)で保留になったから苦し紛れに(エ)を考察し、それを基に(イ)(ウ)の答えを出した。(キ)もまた(エ)を大きなヒントとしたし、(ク)はそんな(キ)でたどり着いてしまった「間違った読みの全体論理」を根拠に答えを出した。

 

 ちなみによく見ると、(イ)(ウ)はそれぞれ、迷った2択のうち、選ばなかった方が正解になっている。「2分の1までは絞れたんだけどな~」というのは受験生にありがちな言い訳だが、実は受験問題は、2分の1までは簡単に絞れて、そこからさらに絞れるか、という作問がなされてることがある。こんなのは何の言い訳にもならない。ただし、勉強段階においては、「2分の1まで絞れる程度には成長した」という段階にたどり着いたということを分かっておくのは重要である。

 

 それはさておき。

 

 上記とは逆に、正解した(オ)(カ)は、自信なさげな部分もあったが、(エ)を根拠にしていない。

 

 これが正解・不正解の大きな違いだろう。

 

 考えるに、一か所正解からズレたら、そこを起点に次の答えを求めようとするので、ズルズルと不正解が続いてしまうのだろう。これは神奈川県公立高校入試の数学でも起こりがちなパターンで、図らずも「科目を超えた勉強の性質」を体感してしまった。

 

 それにしても恥ずかしい。「平成31年度問題では無視した記述問題も、場合によっては大きなヒントになり得るようだ。これは大きな収穫である。」だの、小問(キ)の件だの、よくもまあこんな堂々と見当違いも甚だしいことを言ったものである

 

 勘違いは次なる勘違いを生み出す。

 

 自分が間違っているかもという想定を常にしろ。

 

 本文をちゃんとしっかり読め。

 

 良い教訓になった。

 

まとめ

平成31年度入試・6問中6問正解

   令和2年度・6問中2問正解

      総合・12問中8問正解

 

 び、微妙すぎるぞ……。

 

 正解率で言ったら、個人的に設けていた「説立証」のボーダーラインである2分の1をしっかり超えている。

 

 しかしながらこれは、片や全問正解、片や3分の1、という偏った結果によるものだ。どちらが外れ値なのかも判断がつかないが、何はともあれ、「解けないことは無いが、正解率がかなり悪いこともあるので、過信してはいけない」という微妙で穏当な結論を出さざるを得ない。

 

 平成31年度問題は前半でズレが発生しなかったのと問題がそもそも簡単だったことから、全問正解できた。しっかり各問題を関連付けて答えていた証拠である。

 

 一方令和2年度問題は、前半に不正解が発生したせいで、それを関連付けて答えていった結果、不正解が大量に発生し、逆に不正解部分に関連付けないで答えた少数の問題は正解した。

 

 本来ならば、本文を読めばそこに答えが書いてあるので、勘違い・見当違いをしていたとしても、読んでいるうちに気づいて、正解への修正力が働く。不正解が次なる不正解を呼ぶ、というこの現象は、本文を読まなかったからこそ起きた現象だ。

 

 やはり、本文はしっかり読むべきなのである。現代文読解の本義は間違っていなかったのだ。

 

結論

 

①本文を読まなくても、解けないことは無いが、一か所間違えるとそこから連鎖して間違えまくる

 

②理由は、各問題を関連付けて解かざるを得ないから

 

そして何よりも、

 

③本文は、必ず、しっかり読もう!!!!

 

 

 

 

 

 

 

おまけ・令和2年度センター試験問題でやってみた

www.dnc.ac.jp

自己解答

問2・①

問3・④

問4・④

問5・⓶

問6(1)・①(これはいくら何でも本文が無いと不可能だが、④だけはあり得ないと推測できる)

問6(2)・いくらなんでも本文が無いと不可能なので除外

 

模範解答

問2・⓶

問3・③

問4・⓶

問5・⓶

問6(1)・①

 

5問中2問正解。

 

5分の1のランダムがたまたま2問当たっただけ感のある微妙な結果になった。

 

本文は、ちゃんと、読め!!!